昭和50年 月日不明 タイトル不明 (8月25日前後)
中村良一
先日、波多野さんが、こんなお届けをなさいました。こうして、日々、信心の稽古をさしていただいて、もう、毎日毎日が、またとない、またとまた頂けないほどしの、有難い御理解を頂きながら、有難いと感じておるんですけれども、本当にこれを、どういう風な修行、どういう風な心掛けで、信心を進めていったら良いでしょうかというお伺いがあったんですよ。そしたらあの、神様がね、ちょうど、この辺がここにあったんです。そしたら、これを頂くんです。この絵を。これはあの、富士山の遠景です。あの富士山の遠景を、遠く眺めた富士山を頂くんです。今、ちょうど、波多野さんがもう、本当に、日々、有難い御教え、またとない御理解をこうして頂いて、もう、日々有難いというておるのは、その富士山の遠景も、大変素晴らしい、何時見ても、どこから見ても素晴らしいです。こういうとるのと同じ事です。ね。ですから、結局あの、波多野さん、やはりこの、富士山に、あの登る気になる事ですねと。頂上めざして、本気で登る気になる事です。もう、これを心掛けとかねば、信心になりませんと、こういう事でしたけどね。お互いもそうです、もう、ただ、有難い、有難いでこう、まぁ、確かにあの、合楽の方たちは、それに酔うておるような感じがしますね、御理解に。だから、それだけじゃなくて、やはり、富士山の遠景を遠くから眺めて素晴らしいと言うだけではなくてです、それに登るということがね、ここ二三日の御理解だと、私は思うんですよ。ね。
昨日、末永先生が、今度のおかげの泉に、昨日一昨日の午後でした。収録して、印刷屋にやろうと言うて、書きかけておったんです。そしたら、昨日の御理解を頂いてですね、こりゃまぁ、ちった厚なるばってんからね、昨日のとを添えなければいけないという事で、まぁお許しを頂きたいと言うて出てきたんです。また、恐らく、今日の御理解もね、こりゃどうでも、三宝さんじゃなかばってん、今日の御理解もみらにゃいけん、けじめがつかんち言うごたる、そのまぁ、感じですけどもね。んーまぁ、そんな訳にゃ行きませんけれどね、合楽の場合は、何時もそうじゃないでしょうかね。もう何時も何時もが、おかげの泉の原稿にするなら、もう、どれでも、その原稿にしたいというような、そういう風な有難い御理解に、お互い、浴している訳です、こら私を含めて皆も。ですから、結局、あの、富士山の遠景を眺めて素晴らしいを言うだけではなくて、それに登らせていただくおかげをいただかにゃいけません。そしてそれを、登らせていただく気になったら、どういうことになるかと言うのですよね。
先ほど、あの、久留米の井上さんがお届けをされますのに、ちょうどあの、井上さん達が、その時分な、いわゆる、高等女学校でしたかね、久留米の高校を出ておられますから。あのときが、戦時中で、修学旅行がなかったそうですね。ですからその、同窓生の方達が、その、みんなでね、その、何十年後の、いうならば、修学旅行をしようという話し合いが纏まって、昨日、五十何名かの方達が、博多の駅から、あの、旅行に発たれたという事を、前から、話もあっとったでしょうけれども、自分は畑で草を取り取り、それを、ラジオで、その事のニュースを流してあったんです。それで、聞かせていただきながらね。今日は、その、同窓の方達が五十何名、何十年後の修学旅行をしておられますから、どうぞもう一度、(?)中、おかげ頂かれるようにという、お届けがあったんです。そして、ほんなら、私はというとね、ほんなら、井上さん自身はね、もう本当に、もう例えば、そういう、なるほど、友達やら、同窓生の方達と、楽しゅう旅行が出来るということは、けども、それよりか、もっともっと素晴らしい、有難いことをね。今、草を取りながら感じておるところであるし、そこに、あの、勿論、羨ましい、そんなこと全然、もう行こうと思えば、それこそ、井上さん辺りなんかね。今もう、それこそ、井上さんが、今、大将ですからね、いうならば。もう、どげなこっでん、しようと思えば出来るとですよ。ね。けども、そげなだん、そげなだんじゃないと、そんくらいなこっじゃない、有難さを身に付けておられるという事ですよ。
先ほど、原さんがお届けされましたが、近所の方達は、大変お金持ちさんですけれども、もう、この人はもう、とにかく、まぁ、難儀を抱えておられるのにもかかわらず、財産が沢山あるから、もう、ただ、旅行に行くとだけが楽しみらしいですね。もう、本当に、聞きよってから、悲しゅうなります。けれどもほんなら、信心頂いておってもですたい。なら、それを、羨ましいごたる気が起こることでは、貴方は、ただ、有難い有難いと言うとるけれども、富士山の遠景を眺めて、素晴らしいと言うとるだけだと。私は、そういう意味で、ほんなら、井上さんは、もうその、富士山に、本気で登りござうからこそです。そがなだんじゃない、有難さというものが身に付いて行きよるとじゃないでしょうかね。私はあの、大体ここまでです、おかげは。例えばね、人柄というようなことに、自分が楽を感じるような楽じゃ駄目です。本当の極楽でなからなければ。これは、信心によらなければ、いただけない楽です。その味わいが分かったらもう、絶対、おかげ頂くです。ここ、二三日の御理解はそれです。煎じ詰めると、ね。だから、そういう信心を、本気で一つ、身に付けていただきたい。ほんに、あの人達のごと、月一遍づつでん、我が良か時、旅行に行ったなら、さぞ良かろう。ほんにあの人達のごつ、デパートに行ったら、必ず何か、反物買うて来てござるが、ほんに、あげんなられたら、さぞ良かろうてんなんてん言うのが、これから先でんあるなら、もう、あの、富士山に目指して登っておるとは言えません。私共は、そこの有難さをね、いよいよ、身に着けていきたい。
私は今日、井上さんの、今日のそのお届けとね、本当にあの、素晴らしいと思いました。同時に、あの、波多野さんの、二三日前お届けされたその事とを、まぁ、聞いていただいたんですけど、確かに、素晴らしいというておるのは、合楽に参っておる、全部の人がそうだろうと思うんです。ですから、そのなかから一つ、本気でね。今、神様が、ご発動ましましておる、おかげを下さろうとしている働きです。例えばもう、佐田さんなんかは、今、秋山さんなんかの話を聞くと、もう、昨日から,早速始まっておるはずです。ね。ここでも始まっとるです。ね。そらもう、本当に、驚くばかりです。ですから、打てば響くように、おかげの頂けれる神様は、働きを下さりよるのですから、それを頂き止める、あの生き方がね、あの一つ、検討して見て、いうならば、垢抜けのしたね。一つ、何というですかね、私は、今のその、井上さんの信心は、もう、素晴らしい、垢抜けしたもんだと思うですね。ね。そりゃもう、本当にあの、そういう状態が出来たときに、初めて神様が、ね。おかげを下さっても、もう悔いの無いおかげを下さることだろうと思いますよね。